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じっちゃまのいう「暗黒の木曜日の教訓と今日との類似点」とは?

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暗黒の木曜日
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今回は2021年7月19日のじっちゃまYouTube Liveより「暗黒の木曜日の教訓」と現在との類似点についてまとめておきました。

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じっちゃま(広瀬隆雄さん)YouTube

1929年『暗黒の木曜日』の教訓

※1929年の暗黒の木曜日についてのお話はこちら2021年7月19日のじっちゃまYouTube開始後すぐにはじまります。以下、かんたんにまとめておきますが、ぜひ全編とおしてご覧ください。




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アメリカの金融システムの歴史について

【じっちゃま】今日はニューヨーク市場の大暴落、いわゆる「暗黒の木曜日」について喋ります。「暗黒の木曜日」が起きた直接の原因は、それ以前の3年間にも渡る緩和的な金融政策ではないかと考えています。





その話に入る前に、アメリカの金融システムに関しておさらいします。下の写真はアレキサンダー・ハミルトンです。1776年にアメリカはイギリスから独立宣言をしました。









ジョージ・ワシントンらが中心になって独立運動を始めたのですが、その時のメンバーの一人がアレキサンダー・ハミルトンであり、ワシントンの右腕として活躍した人です。





当時、アメリカには13の州があり、それらが団結してイギリスとの独立戦争を戦う過程で各州がたくさんの借金をしていました。





財政的に破綻状態になり、ハミルトンはその州財政を立て直すことに尽力しました。当時、彼が提案したことは「みんな個別で借金しているので、返済に非常に苦労する。みんなの借金を一本化すれば、借り手が大きすぎてつぶせないので信用力が上がる」ということを提案しました。





この提案は非常にその優れた洞察だったと評価されています。借金を一本化するということは財政を一本化するということを意味しており、それは新生アメリカ合衆国全体としてお金を借りるということの始まりでした。





それを突き詰めて言うと、ハミルトンは「アメリカ全体の中央銀行をつくったほうがよい」という合衆国銀行の提唱者でもありました。





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第一次・第二次合衆国銀行について

1791年~1811年の間は中央銀行である合衆国銀行が通貨を発行していました。銀行の定款は20年間有効でありましたが、当時の大統領であるジェームズ・マディソンは合衆国銀行の定款の更新をやりませんでした。





そのため、第一次合衆国銀行は自動的に消滅しました。その後、「やっぱり中央銀行があった方がいいよね」というカタチで1816年に第二次合衆国銀行というものがスタートし、1836年までの20年間は合衆国銀行が存在しました。





しかし、その後の大統領であるアンドリュー・ジャクソンは「大銀行は農家にとって良くない」というポピュリズム的な見地から、第二次合衆国銀行の定款をリニューアルせずに失効させてしまいました。




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連邦準備制度理事会(FRB)の成立

FRBの創設者ポール・ウォーバーグ氏

次に三度目の正直で、1913年にアメリカで結成された中央銀行がFRB(連邦準備制度理事会)です。つまり、独立宣言からFRB成立まで約120年もの間、第一次合衆国銀行、第二次合衆国銀行という中央銀行が存在してた期間は40年しかないということです。





残りの60年間は、アメリカには中央銀行がない状態で国が運営されていたことになります。これは非常に異例なことです。では誰が通貨を発行していたかというと、その頃には1395行もの銀行があり、各々が全部で8千種類のドル紙幣を発行していました。





つまり、アメリカ全体として通貨供給をどのくらいにするかという一貫した金利政策もなく、パニックが起きた時に最後の貸し手の役割を果たすような中央銀行がなかったということです。





そのような理由から、1907年のパニック時にはJPモルガンが最後の貸し手の役目を果たし、彼がアメリカの金融システムを救ったという経緯がありました。





そんなこともあり、「ちゃんとした中央銀行をつくった方がいいよね」ということを発案した人がドイツ系移民のポール・ウォーバーグであり、彼がFRBをデザインしました。




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第一次世界大戦勃発とイギリスの金本位制度への復帰

1913年にFRBが発足した後、第一次世界大戦が勃発しました。当時、世界の金融の中心はイギリスのロンドンでしたが、金本位制から離脱した関係で、世界のマネーセンターがアメリカに移りました。





この戦争後の1925年にイギリスが金本位制度に復帰しました。その時、第一次世界大戦で疲弊したため、本来ならポンドは弱い通貨としてドルとの交換比率をもっと弱い水準に設定すべきだったと思います。





しかし、第一次世界大戦前と同じ水準(1ポンド=4ドル86セント)という交換比率でイギリスは金本位制に復活しました。これでは自国通貨が強すぎるので、輸出等がやりにくくなるという意味においてイギリスにとって荷が重い交換比率だったと思います。





実力以上のレートで交換比率を決めてしまったということですが、アメリカの連邦準備制度が2億ドル、JPモルガンが1億ドルの合計3億ドルをイギリスに貸しました。それを種力として為替を支えました。





当時のイングランド銀行の総裁はモンタギュー・ノーマンでした。アメリカのニューヨーク連銀の総裁はベンジャミン・ストロングで、この二人の中央銀行のトップは非常に仲が良かったです。





とりわけ、ベンジャミン・ストロングが金本位制度復活にのためにお金を貸したりと非常に尽力しました。





ベンジャミン・ストロングは元々JPモルガンの社員でした。JPモルガンのお父さんであるJSモルガンはアメリカ人ですが、ロンドンで銀行業を始めたという関係もあって、いわゆる「アングロファイル」というイギリスファンです。





その関係で、ベンジャミン・ストロングもイギリスのファンでした。世界大戦前はイギリスが世界の金融の中心だったので、イギリスを中心に物事を考えるということは全然不自然ではなかったです。




しかし、第一次世界対戦でヨーロッパが凋落して世界の中心がアメリカに移りました。ベンジャミン・ストロングはJPモルガンの中で出世していきましたが、初代のニューヨーク連銀の総裁になる直前はバンカーズトラストという銀行の副社長を務めていました。





この人は結構苦労しているというか、常に暗い影がある人で、例えば1905年に最初の奥さんが自殺しています。その後、再婚しましたが、1916年には2人目の奥さんが別居しています。




別居した理由は、ベンジャミン・ストロングが初代ニューヨーク連銀の総裁になり、官職なので給料が安かったからです。





奥さんはすごく裕福な家庭の出身で社会的な地位が高い人だったので、「貧乏な暮らしは嫌だ」と別居してしまいました。





さらに、ベンジャミン・ストロング自身も健康があまり優れない結核患者でした。そのため、ニューヨーク連銀の仕事のうちの3分の1ぐらいは療養先からリモートで仕事していました。




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ベンジャミン・ストロングのニューヨーク連銀総裁として采配

ベンジャミン・ストロングのニューヨーク連銀総裁として采配はイギリスと協調するいうことで、金利は常に実体経済の強さに比べてちょっと低めに設定していました。





それは、カネ余りの状態を放置したとも言えると思います。その余った金が株式市場に向かって1920年代後半の株式ブームをもたらしました。





当時の短期金利は公定歩合で3%前後、コール市場の金利は約5%でした。そうすると金融機関は政府から3%でお金を借りて、それを証券会社に5%で貸し付けるだけでほぼ無リスクで2%の差額を手に入れることができました。





そして、コール市場で証券会社が獲得した資金は信用取引レバレッジの建玉を個人投資家に建てさせるというカタチで利用されました。





つまり、レバレッジがかかった資金が株式市場に向かったということです。それは、今日で言うならば仮想通貨FXのように、現物の仮想通貨を持つのではなくて、証券会社との相対取引でレバレッジをかけてトレードすることが1929年頃にニューヨークでものすごく流行っていました。





その結果、株式市場は非常に活況で、全然仕事してない連中がマーケットでプレーすればどんどん儲かるということになりました。これでは、一生懸命働いている農家などが損なので、「もっと利上げしろ」というプレッシャーをストロングは受けました。





彼の健康状態はどんどん悪くなり、1928年、1929年あたりは世論に負けて利上げを繰り返しました。それが下のチャートの赤の部分です。









1928年、1929年あたりに短期金利3カ月物 Tビルが急上昇していることが分かります。青の線は長期金利ですが、赤の短期金利が青の長期金利よりも上にきています。





つまり、利回り曲線で言うと長短金利の逆転が起きているということです。この現象は不況が来る前兆と言われていますが、このようなカタチでアグレッシブすぎる利上げが暴落の前に起きたということです。




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暗黒の木曜日とその前後

そして大暴落のあった1929年はレイバーデー明けに、ダウは381.17ドルの高値を付け、その後ぎくしゃくした動きになって、10月24日に暗黒の木曜日でー11%となりました。





その翌月曜日には-13%、火曜日にはさらにー11%という形でどーんと3回続けて大きく下がりました。





その年の11月3日の安値が198.69ドルと、9月3日の最高値381ドルが2カ月強で198ドルまで下げていったということです。





最終的にニューヨーク市場が大底をつけたのは、1932年7月でその時のダウは41.22ドルと約8分の1まで下がったということです。





暴落が起きる直前は、それこそ靴磨きの少年やメイドさんのなどのアメリカのあらゆる階層の市民が株式投資に現を抜かしました。





10月24日に株式市場が暴落しはじめたら、みんな夢遊病者のようにニューヨーク証券取引所に向かって歩き出しました。その日のニューヨーク取引所前はものすごい人だかりになりました。みんな呆然と株価の暴落を見守ったということです。




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暗黒の木曜日の教訓と今日との類似点

ここまでの話をまとめると、大暴落が起きた理由は、FRBができてから1年も経たないうちに第一次世界大戦が勃発したということで、まだ中央銀行が十分に機能してなかった時に色々な出来事が起きてしまったということが指摘できます。





当時はニューヨーク連銀とFRBは主導権争いをしてました。そして、ニューヨーク連銀の方がFRBより発言力が強かったです。





つまり、ニューヨーク連銀総裁のベンジャミン・ストロングの方がFRBのメンバーよりも声が大きかったということだと思います。





そして、ストロングはイギリスへの配慮で非常にゆるい金利政策を長く続けすぎたとということです。その結果として、株式ブームになり、格差社会が非常に進行して、その格差に対する批判に負けてストロングがだんだん利上げをはじめました。





利上げがはじまると、行き過ぎたレバレッジ取引(今日でいうロビンフッドや仮想通貨 FXなど似たようなことが起きている)が巻き戻しされて急落が来たということだと思います。





もっと言えば、利上げのタイミングが遅すぎたと言えると思います。今は当時ほどは、利上げに手をこまねいてはいないと思いますが、セットアップとしては結構似ている面もあります。





8月のジャクソン・ホールでパウエルFRB議長はテーパリングを発表するのかはわからないですが、そろそろ引き締めていかないといけないという時期にきています。




だから、9月・10月あたりにどのくらいメリハリのついた采配ができるのかということに注目したいと思います。




ウサギ
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以上です!!

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